八月を全てくれないか
高校3年生のこの時期。
じとっとした肌にまとわりつく湿気と、窓の外にはどんよりとした曇り空。
無理やりまとめて袖を捲っていた黒のいかにも熱を吸収しそうな学ランからやっとおさらばし、見た目にも涼しげな白のYシャツ一枚で、ぱたぱたと控えめに下敷きから風を送りながらおじいちゃん先生の話を耳に入れる。
実際情報として取り込まれているかと言われれば、その手前の視覚的情報に脳のキャパシティを奪われているが。
窓際の隣、後ろから2個目の俺の席からは、黒板に目を向けた時に嫌でも目に入る窓から3列目前から2個目の席。
幼い頃から見慣れた、自分より小さく柔らかな背格好。
今日は暑さからか肩より少し伸びた黒髪を耳の後ろでひとつに括ってある。
おじいちゃん先生の書いた読みづらい文字を、真剣にノートにあの少し癖のあるしっかりした字で、あそこに出ているパステルカラーのペンで彩りながら書き写しているんだろうなと思うと、それだけで、はぁと息が漏れる。
そんなことに気を取られていると、現実に引き戻すようにチャイムが遮った。
最低限の情報が書き殴られたノートと教科書を仕舞っていると、いつもの通りのゆるく鼻にかかった声が俺の名前を呼ぶ。
「かみちゃんパン買い行こー」
「ん、ちょお待って」
隣のクラスから迎えに来た、Yシャツの袖を既に肘までくしゃっと丸め込んだしげと並んで購買に足を進める。
購買のパン屋で放課後用にしげは焼きそばパン、俺はメロンパンを買い、自販機に足を向けると、その前にさっき見つめていたあのひとつしばりの黒髪が目に入った。
「ていっ!」
ガコン、という音とともにしげの押したカルピスが落ちてきた。
「あ!何するん!私が買おうとしてたのに!」
「え、いる?」
「いらん!」
と横でわちゃわちゃと効果音がつくような言い合いをするのを聞きながら、レモンティーのボタンを押した。
「ん、」
「え、ええの?」
「ええよ、レモンティーでよかった?」
「うん、ありがとう!どっかの誰かとは全然ちがうねぇ?」
「誰のことやろなぁ~?」
勝手に買ったカルピスを飲みながらとぼけるしげと彼女を横目に、今度は自分の為にさっきと同じボタンを押した。
教室に戻り、しげは俺の前の席のイスをひっくり返して向かい合って弁当を食べる。毎日の光景。
もぐもぐとしながら話す内容は、あの先生のボケが寒かったとか、誰々のモノマネが激似だとか、あとは…進路の話とか。
「ほんまにさぁ、あんな面談ばっかしてどうするんもうそんな俺言うことないし?って思わん?もぉ次の大会で部活も終わりやしなぁ…かみちゃんはどんな感じ?進んでるん?」
「んー、なんかあんま、びみょーな感じ…?あんま集中できひんねんな家でやってても。」
「そーなんやぁ…でも先生言うてたやん、波?みたいな、グーン伸びるときと伸びにくなるときある、みたいな」
「そぉなんやけどなぁ…」
あと数ヶ月と口を酸っぱくして毎時間のように言われても、どうにもまだ遠い事のようにも思えて、ひとりでは逃がすことのできない漠然とした焦りとよく分からない自信のようなものを、口に出すことでお互いゆるゆると中和しているように思えた。
気温も上がり、お腹が満たされた状態での鴨長明なんかは、良い子守歌のようで、今にも船を漕いで大海原にでも出てしまいそうだったが、前から2番目でノートと黒板を行き来する後ろ姿のおかげで大航海の予定の船は港に帰ってきていた。
終業のチャイムがじめじめとした教室に元気を取り戻させる。
HRで配られたプリントを丁寧に端を揃えて畳んでいると、俺の名前を呼ぶレモンティーのような甘酸っぱい声。
「かみちゃん!今日どうするん?」
「残るで、今日も部活やろ?」
「うん!あ、でも遅かったら先帰ってもええからね?」
「わかった」
「じゃあ行ってきまーす」
ほぼ毎日交わされる会話。
でも一度だって彼女の最後の言葉通りにしたことはなかったし、これからもするつもりはない。
電車の時間を待つ、帰宅準備万端の奴らとしばらく話して、そいつらも見送ると、教室には自分の動く音と外から聞こえるしゃべり声が響く。
ガサガサとリュックから参考書とルーズリーフを取り出し、机の右端にレモンティーを置く。
しばらくシャープペンを走らせ、ルーズリーフの表面が埋まろうとしたとき、開いた窓からまだぬるい風とともに吹き抜ける爽やかな歌。
紙の上を走っていたシャープペンの動きが止まる。
あのメロディーラインに乗せて彼女の甘酸っぱい歌声が俺の元へ飛んで来ているのだと思うと、このまま自分の気持ちが逆に君の元へ飛んで伝わるんじゃないかと錯覚を起こすようで。
ぼうっと惚ける気持ちと届かない想いに呼吸がくるしくなる気持ちとが、みぞおちの辺りで混ざり合っているのを、右手にあるレモンティーで流し込んで、耳は窓の方に向けながらまたシャープペンを走らせた。
そのままひたすらに問題を解き続けて、ちょうど5枚目のルーズリーフが終わろうという時、ふと顔を上げると歌声は止んでいて、校庭からの掛け声やホイッスルの音もガヤガヤとした話し声に変わっていた。
ふぅ、とひとつ息を吐く。
シャープペンを置き、参考書を閉じ、黒くなったルーズリーフ達をまとめていると、ぱたぱたと軽い足音が廊下の遠くの方から近づいてきて、思わず上がってしまう口角を抑える。
「はぁ!かみちゃんおまたせ!」
「お疲れさん」
「しげは?まだ?」
「うん、まだ来てない」
勉強道具をリュックに詰めて席を立ち、教室の扉の前でそんなことを言っていると、白いYシャツの腕をまた捲って前髪を上げたしげが走ってきた。
「あ、しげ!」
「はぁ…!間に合った…!」
「お疲れさん」
「もう遅いから帰っちゃおうかと思った!」
玄関で靴を履き替え、外に出ると、風が涼しくすべるように吹く。
玄関から彼女を真ん中にして歩を進める。
ニコニコと目を細めて話す彼女の笑顔は、俺の向くのと同じ方をよく向いている、ような気がする。
俺がひどく屈折した見方をしているのかもしれないけれど。
気付かれないように、気付かれるために、横顔を見つめながら歩く。
いつもの丁字路にたどり着いた。
「じゃあな~」
「おう、」
「また明日ね!」
1人左に向かうしげに背を向け、歩き出すと、さっき同じ方向を向いていた君の顔が、今度はよく見える。
誰もいない道にふたり分の足音が響く。
1日で数分間だけの優越感。
そこから生み出される独占欲。
俺より10cmは低い身長。俺より足ひとつ分短い歩幅。俺よりゆるく華奢な肩幅。俺より一回り小さな手。
全部俺だけが隣で見られるようになればいいのに。
そんなことを頭の端で巡らせながら、この時間だけ俺だけに向けられる笑顔と言葉に相槌を打った。
あ。
ふと思い出す、教室で聞こえてきた会話。
今年の花火大会は7月30日らしいということと、模試の次の日だということ。
…そしてその花火大会はいつも3人並んで見ていたこと。
なぁ、2人であの大きな花火を見たいと言ったら、君はどんな反応をするのだろうか。
花火のように輝く笑顔を俺の方だけに向けてくれるようになるだろうか。
君との最後の夏を、最高の8月を、俺に全てくれはしないか。